江戸後期、日本は世界一の識字率を誇った!「寺子屋」が果たした大きな役割
有名中学入試問題で発見する「江戸時代の日本」④渋谷教育学園幕張中学校〈前編〉
■学問は男のもの、…でも江戸の日本は違った!
戦前まで、世界的に「学問は男がやるもの」というのが一般的な考えでした。
イギリスはパブリックスクールに代表される「私立学校」が、地主や領主など紳士以上の身分の子弟用として発展しています。数百年前の当時から既に女子校もありましたが、やはり男子校が多いようです。
入学対象も、あくまでも「中の上~」です。その中に庶民は勘定に入っておらず、それはどこの国でも当然のことでした。だから世界中、当時は特に「庶民の識字率」が低いのです。ましてや江戸時代の頃は欧米もアジアも「本を読み書きできる女性」は王侯貴族・官僚・裕福な家など、一部の人たちだけ。たまさか得意な女性がいると「男なら良かったのに!」などと惜しまれる場合もあり、なにやら紫式部を思い出しますね!
紫式部は彼女が女房として仕えた中宮・彰子(藤原道長の娘)と曾祖父(三条右大臣・藤原定方)が同じで、二人は遠縁で一族です。紫式部の父・越後守藤原為時は、花山天皇の漢学の教師に任じられていたほど優秀な学者で歌人でもありました。
彼女は男の兄弟がいて子供の頃、よく隣で彼が父に漢文など勉強を教わっているそばから、彼よりも早く正しく理解し覚えていったため、父は「なぜお前は男ではないのだ。(男なら出世できただろうに)」と本気で惜しみ、嘆息したといいます。
国や地域によっては「女性なのに夫や兄弟より読み書きや勉学が得意で聡明」だと外聞が悪くなるので、ひどい場合は家族がそのことを隠したり、本人が家族にバレないように秘密にしていたりするほどでした。
ところが江戸後期の日本ではどうでしょう。
男女関係なく、現代と同じく幼少時から「読み書き」を習い、大半の人が子どもから大人まで読み書きできたのです。移動図書館ならぬ「貸本屋」が大繁盛(新刊は高価ですが、彼らから借りると安く読めた)、お得意先には読書好きの女性たちが数多くいたことでもわかります。
(ウ゛ェルナー:1860年、江戸幕府とプロシアの間に通商条約を結ぼうとした、オイレンブルク伯爵使節団の一員として来日。3年滞在した。プロシア海軍士官)
「教育はヨーロッパの文明国家以上にも行き渡っている。シナをも含めてアジアの他の国では女たちが完全な無知のなか放置されているのに対して、日本では、男も女もみな仮名と感じで読み書きができる」
(シュリーマン:ドイツの考古学者。世界漫遊中の1865年、日本に3ヶ月滞在した)